Homines sacri ob poenas ―極刑について少々―   

死刑について語ることはとてもむずかしい。

そもそもこの問題を冷静に論じることはとても困難だ。
正義と倫理の極限が現出するような問題であるだけに。

また、死刑制度は,国家・社会・法律・倫理をどう設計するかという問題とも密接に関わるので、
包括的に議論を進めることも大変だ。

なので、今回はごく限られた所感と意見を述べるにとどめる。



まず、私自身の立場を明らかにすると、
現状の日本における死刑制度に関しては、「消極的是認」ということになる。
つまり賛成ではないが、反対もしない。これ以外の何物でもない。
(世論調査で訊かれたらちょっと困るパターンではある)


「賛成でない」要因としては、個人的な倫理観や価値観が大きく関わっている。
自分としては、死刑という刑罰は端的に言って無意味であり、

(詳述は避けるが、予防効果は他の刑罰と大差ないように思われること、
 応報刑論を貫徹させると極度に暴力的な革命や粛清をも原理的には正当化しかねないこと
 (↑つまり助ける余裕があるのに貧しい国の人々を見殺しにするばかりか間接的に搾取している
   先進国国民は全員死刑という主張にたいして反駁できなくなる、というような)、
 加えて被害者縁者の感情という問題は、酷ではあるが縁者当人が殺されたわけではないので
 量刑に関して副次的効果しか持ちえないこと、さもなければ被害者を悼む人数の多寡によって
 量刑が左右されるという、法秩序上不合理なことになるということに拠る)

また怒りにまかせてこの刑を行うのならば、こちら側まで修羅道に堕ちるような気がする。
そうでなくても、どんな人間であるかは全く関係なく、
刑罰であるにせよ同種族の命を奪う行為というのは
本来的には神ではない人間が触れてはいけない領域のように感じる。
それから、正義の執行者としての国家権力に
全幅の信頼を置いているわけではないことも反映している。


「反対しない」要因は、
大多数の人が死刑制度に賛成する心情というのも理解でき、
相対的応報刑論の枠内であれば、罪を償うための死刑という考え方も
一応成立しうるように思われるので、
賛成する人たちを翻意させるために、あえて説得する気にはならないこと、
それからやはり凶悪な犯罪者だと完全に判明している場合には、
死刑囚が刑死すること自体に対しては憐憫を抱くことはないし、
それほど問題とも感じないということだろうか。



ただ、ここで「刑死する」という自動詞的表現を用いたところに
死刑制度のアポリアのひとつがすでに現れているわけで、
犯罪者が神でも何でもよいが、誰か「正義の執行者」によって刑を食らうのなら
これほど目出度いことはないように思えるのだが、
世俗的民主主義国家においては刑の執行者は理論的には国民一人一人になることを免れ得ない。
この視角から考えると、「そんな責任を私は負いきれるのか?」というような、
どうしても割り切れぬ思いを私は抱かざるをえなくなる。

これと関連して、凶悪犯罪者=究極的社会不適合者を
社会が積極的に生命を奪うことに関与する形で、己の中から排除するのは、
本当に正義といえるのだろうかという疑問も消えない。
いささか荒唐無稽ではあるが、
もし法秩序のある私たちの世界で彼らは死ななくてはならないにしても、
彼らが生きることができる、というよりも自由に殺し合うことのできる社会(?)というのも
想定不可能ではない。
それやこれやで極刑としての中世的なアハト刑やら共同体からの追放刑やらに
憧れたりもしないでもないが(これはこれで残酷な気もするが)、
現代世界は昔と比べて人間の数がずいぶん増えて世界の中の「すき間」が減ってしまったので、
これを実施するのは難しそうではある。



以上つらつらと書いてきたのは、別に

「死刑制度には矛盾が本質的に内在しているので、みなさん止めましょう」

と言いたいのではなくて、

「死刑制度を積極的に擁護するなら、これらの矛盾を正面から引き受けて事に臨め」

と主張したいがためである。


死刑制度は、社会における正義の維持のために人間が人間を「最終的に」裁くという、
本来人間の手には負えないことに部分的に手を出すものである。
(死刑囚に関してはもちろん人権は大幅に制限され、執行の瞬間に事実上停止されるわけだが、
 その瞬間まで人としての位格personaを有することは否定のしようがない)
そして死刑の執行を全き正義の実現だと無条件に保障してくれる超越的権威としての神も君主も、
現代の世俗的民主主義国家には原理的に存在しえない。
それゆえ、死刑囚個々の徳性いかんとは全く無関係に
国民ひとりひとりが死刑の執行をつとめて冷静かつ厳粛に受け止めざるをえないものであるし、
「お上が実現してくれる正義」か何かと勘違いして、無責任にも
国家の権威を無意識裡にかさにきて個々の事件・公判・執行に関して
自分を完全な正義の側の安全地帯に置きつつ軽はずみな言動を弄するのは
根本的に誤りを含んだ振る舞いといえ、
まさに醜悪としかいいようがない。
凶悪な犯罪によって法秩序の規範意識が大きく揺さぶられることで生じた集団的不安を解消せしめ、
元の善良な人々による倫理的人間関係の秩序に復するためには、
重罪人を贖罪というかたちで社会から最終的に取り除くというある種の儀礼性を帯びた行為が
どうしても必要となるというのは、法人類学的な?観点からみればよく理解できる。
しかしわれわれはもうそろそろそのメカニズム自体にも自覚的になる必要があるし、
それによって冷静と厳粛において留まることが、
ひとりひとりが社会をつくり上げる主体である時代の責務ではないだろうか?
個人個人の抱くどうにもならない感情というのは当然あるにせよ。





加えて、死刑に正面から厳粛に対するという観点から、
死刑執行者を裁判員制度と同様に、国民から選出することを提案したい。
死刑執行という行為は、その社会における重大性・重要性ゆえに、
選挙と同様に国民が刑務官などに移譲すべき性質のものでないのは明らかである。
勿論、死刑制度反対派および私も含む消極的是認派の人々のために
過料または労役を引き換えにした「良心的拒否」の制度は設けるべきではある。
恐らく死刑制度に積極的に賛成している方々は、
責任の重さを実感しながらも、この職務の必要性を十分に理解し、
義務を立派に果たしてれるであろう。
わたしもそのような人については、
彼らの願う社会正義のために必要不可欠な、(私自身にはとてもできないような)
人間の領域を超えたところにある市民的義務を敢えて果たす、
ある種武士的なエートスを帯びた態度に(皮肉ではなく)心からの賞賛を送りたい。
反面この制度の導入によって積極的賛成という立場に変化が生じるのならば、
その人の拠って立つ論拠がそもそも堅固ではなかったということになると思われる。




追伸(7/16)

この記事に関してはAqua Magnaさんと活発な議論が展開されています。
まとめの意味も込めて、上記の死刑制度の提案の原理的なものを整理しておきます。
(以下は基本的に「滾滾録」の記事への私のコメントの一部を基にしています)


制度案に内在する「原理的な」テーゼとしては、

A.「人間・生命の尊厳」(ここから、死刑囚がどんなにひどい奴で、人権は停止できても、そいつに私たちが死刑執行者として相対した場合に、どうしても非人間・無生物・ただの物質とは見なしきれない何がしかがやはり存在する、という主張が導出されうる)
B.「死による贖罪という観念、およびそのA.との均衡の必要性」
C.「世俗国家の原理」(誰かを裁く際には正義の根源を神や超越的権威に頼ることはできない、私達の側の正当性がじかに問題になる)
D.「国民主権・民主主義の原理」(死刑の執行とは、原理的には主権者である国民各人が罪人を刑に処することである)
E.思想・信条の自由(死刑制度に積極的に賛成しない人には良心的拒否制度を設けるべき)

の5つが考えられます。提案の是非を議論する場合、特にこの5つの原理が焦点となるでしょう。
この5つの原理は、思想信条的なものから独立した状態では確かに「無根拠」で、これらを採用しない社会はいくらでも実在した/していますが、現代日本の多くの人にとって全く受け入れられない性質の原理でもないと思いますし、したがって理性的な議論も可能だろうと信じています。

(一方、原理A.が採用される根拠としては、わたし自身の形而上学的前提によれば本ブログの記事Eine metaphysische Voraussetzungの有神論的な内容と密接に関わりますが、原理A.がそれに基づいていることが合意されなければならない、という話ではありません。わたしの個人的な形而上学的信条と上述の原理群の議論とは基本的に無関係としてよいと思われます。他の人にとっては別の前提で原理A.を採用していても全く問題ないでしょう。一応誠実さを期して自分の主張の思想的淵源を開示するという目的で記しておきました)
[PR]

by bulbulesahar | 2011-07-07 10:06 |

<< 昨日は七夕ということもあって Aequalitas inte... >>