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追い出しコンパによせて   

昨日研究室で追いコンがあった。
二次会の後、研究室で朝まで飲んだりするのは久々のこと。

 chon nist haqiqat o yaqin andar dast
na- tavaan be-omide shakk hame 'omr neshast
haan ta na-nehim jaame mei az kafe dast
dar bi-khabari mard ke hoshyaar o che mast

真理も確信も手のうちにないのなら
 疑ってばかりに人生を費やせるわけがない
 手のひらから酒盃を放すなかれ
 酔っていようといまいと無知なのだと心得て
      
(大学書林のルバーイヤートの選集より、ペルシャ語のアルファベット転写にあたって長母音表記を特殊記号を使わないよう少し変えています。訳は黒柳恒男氏のものを参照しつつ自分で書いてみた)

古典からの引用で記事を書くのは、多少ずるい気もするけれど、
自分がその言葉に親しむ意味でやっているのでご容赦を。




朝まで飲んで研究室の人々と話して感じたことは、
研究者になるという目標を共有している人の間でも
みんなそれぞれ何を拠りどころにして生きているかは違っているし、
それによって研究観、職業観にも相違があるということ。
でもそれでいいのだと思う。

研究者は真理に迫ろうとしつつ自分の論の妥当性を世に問うていくにせよ、
所詮人には世の真理は垣間見えても本質的に隠されているというのがわたしの持論だし、
(だからこそ個々人の間に生まれる真理・妥当性を巡る闘争・折衝の総体的な動きに意味がある)
それにそもそも人文学研究者にとっては安定した未来は描きにくい状況でもありつつ(笑)、
いかに生きるかなんて百花繚乱でよろしいのではないでしょうか。

いわゆる学界も人的集団だから、
一定のエートスというか、職業意識があって、
それと折り合いをつける必要はでてきてしまうけれど、
この2年ほどを振り返って、
自分の研究にしても生き方にしても、他人とはできるだけしなやかに応対しつつも、
自分の大切なところに関しては流されないことが大切なのだと痛感しました。
無理して支配的エートスに合わせても、
その点は大して感謝もされないし、結局自分の研究への原動力を吸い取られるだけなので。
まあ今いる場は、ディシプリンとしての歴史学の訓練を受ける場としては有効だし、
評価もするけれどねー(えらそうでスマン)。
自分の求めるところとの兼ね合いで、場の意味も決まってくるものと思います。

by bulbulesahar | 2009-02-21 18:17 |

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