映画『幻の湖』amazonレビュー(バックアップ)   

迷作との誉れ高い、この映画の存在を知ってから、
「幻の湖」というタイトルが頭から離れず、
ある夜に衝動的にAmazon prime videoで観てしまった。
ネタ映画かと思ってたけど、思いのほか心に残るものがあった。
やっぱり関西住みなので琵琶湖にいくらか愛着があるせいなのかな。
それで、以下がそのレビュー。

=================================


無常と因縁の水面を走り抜ける生の躍動



「でもシロ、あの笛はまた聞くし、その時にはまた会える。
  お前と私だけしか知らない、あの人にね」

予備知識無しに観れば面食らったのかもしれないが、
そういう部分も含め大まかな話の流れを押さえていたので、
おそらく仏教的あるいは日本的、とでもいえるような世界観に基づく
転生ものの一ヴァリエーションとして比較的すんなり映画の世界に入ることができた。

主人公は元々は普通に結婚する夢を抱いていたようだが、
出自背景ははっきりせず、どういう経緯か雄琴の性風俗店で
源氏名の「お市」として仮の人格を生きることで辛うじて日々を過ごしている。
この「私」というもののある種の希薄さとあやふやさだが、
同僚のローザもお市がある寺の仏像みたいと言ったり、
石仏がみんな客の顔みたいと言ったりで、
自分と自分でないものの境界があいまいになっていくような雰囲気が
作品としてかなり強く打ち出されている。
そんな主人公も愛犬シロを自分の分身のように可愛がって
一緒にランニングすることに心の支えを見出していたのだが、
そのシロが殺害されたことが引き金となり、
そして神秘的な笛の音に誘われるかのように、
しだいに戦国の世に翻弄されたお市の方と
、恋に生き非業の死を遂げた侍女ミツとに
人格がオーバーラップしていき
(ミツはシロに「転生」している部分もあるようだが)、
彼女達の時を越えた復讐戦へと巻き込まれていくような形になっていく。

映画としてはまず琵琶湖畔の美しい風景が印象的だが、
上記のような物語の舞台としてまことに似つかわしく思える。
「幻の湖」というタイトルは琵琶湖が太古の昔に現れ、
いつか消えゆく運命を暗示するのみならず、
水と陸との、あるいは水と空との界面が、
生と死、存在と非在、自我と非我、
あるいは輪廻と因縁の微妙なあわいをよく象徴し、
そこにこの世そしてこの私、という幻が生まれることをいっているのだろう。
シロの遺体を抱くシーンの後ろに広がる雨の汀、
そして時折挿入される鈍く光る湖面のカットは、
日常性に隠された下にある揺れ動くそういった境目の存在を凄絶に印象づける。
万物は琵琶湖の自然のように流れ行き、かつとことわにゆったりと巡り来て、
皆が自分の命を生きながらもどこかかつて有った誰かの生を反復していくのだが、
そんな中でもひたむきにシロという希望を、
そして執着を追って走っていくヒロインの姿は
まさに人の生そのものではないのかと、
観ているうちに静かではあるけれど深い感慨に浸されていく。
そうした希望や執着の対象が生じ現れ追ってしまうのも、
やはり因縁の結果とみることができるにしても。

こういうふうに考えてみると、
確かに考証的に大いに難のある(笑)宇宙の場面も、
実際の宇宙というよりは、因果の連鎖の果てる境地を象意しているのだろうか。
確かに端から見ればどうでもいいような事件だけが起きる、
もっぱら隠喩的な解釈を要求してしまう作品であり、
テンポは決して良くないし
、映画技術的にもまずい所はあるのかもしれない。
けれども小手先に頼らない雄渾な魅力がやはりこの映画には流れているのではないか、
そう思われる。
映画全編を貫くリストの交響詩「前奏曲」
(この曲も人生と死をテーマにしているとか)の旋律に身を任せ、
人を選ぶとはいえ、どうぞ一度はこの世界をご堪能あれ。



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# by bulbulesahar | 2018-08-10 20:45 |

Padmaavat "Binte Dil" の歌詞試訳   


中世インド、ハルジー朝とラージプートの王国との戦いにおける或る王妃の伝説を題材にとった Bhansali監督の 歴史映画 "Padmaavat"。
日本で本格公開されるかは未だ定かではないけれど、youtubeで予告編やダンスを一目見ただけでその美しすぎる世界に心を奪われてしまったので、今回は作中の一曲、付き人マリク・カーフールがスルタン・アラーウッディーンに歌う"Binte Dil"をちょっと訳してみた(ほぼ直訳ですが)。
歌の動画は以下のリンクを(埋め込めない模様)。
 https://www.youtube.com/watch?v=9aoUpCXY7uk&list=RD9aoUpCXY7uk 

(当方アラビア語ペルシャ語の文法と語彙の知識は一応あるけれどウルドゥー語ヒンディー語は「まんどぅーか(のウルドゥー語/ヒンディー語)」のページで文法を付け焼刃した初心者に過ぎないので、訳の正確さは請け合えません。どうぞあしからず)


”Binte Dil"



Bint-e dil Misriya main
心の娘はエジプト女の中に

Pesh hai kull shabaab khidmat-e 'aalii-janaab
若さの華は全て陛下への奉仕として御前にある

Aatish-kadah adaaon se jaal uthegaa aapke diidah-e tar ka hijaab
炉の如き魅惑に貴方の潤んだ眼のヴェールは幻のように上がるだろう

Mai-kash labon pe aane lagii hain pyasii kurbaten
渇望の苦しみは酒気を含んだ唇へと至り始めた

Hairat-zadah thikaane lagii hain saarii furqaten
完全な別離は青天の霹靂の如く落着した

'Aarizon pe mere likh zaraa rif'aten chaahaton ka silah
私の不運な頬にどうか書いてくれ 栄達こそ 憧れの報いと


恐らくネイティヴにも分かりやすくはない言葉であり詩であるせいなのか、ネットに転がっている歌詞(のローマナイズ)はあんまり安定しておらず、実は上に載せた歌詞のローマナイズも、訳する中で確定したというか、解釈を含んだものになっている。
もともと詞の意味が象徴的だし用語もアラビア・ペルシャの語彙語法が多い上にシノニムも発生したりで翻訳にはなかなか難儀せざるを得ない。

以下いくつか但し書を。

・jaal は最初jal「水」かと思ったが、どうも意味が通りにくいのでjaal「幻影、超自然的なものの出現」を採用
・kurbat も最初はqurbat「近さ」で考えていた。
・thikaane lagnaa は大きく分けて「休む、安らう」と「片づけられる、終わらされる」の二つの意味があって
 訳に難儀したが「落着する」で逃げることにした。
・aariz この単語はSteingassペルシャ語辞典に基づき、その記述のうち「不運、災難」と「顔の側面、頬」の両方を掛詞的に採用した。


この歌、マリクがエジプトの女性への叶わぬ恋を歌ったものという解釈を見ましたが、果してどうでしょうか。もっと多義的なものを含んでいるように思われます。



今回図らずもインド映画の歌詞の繊細かつ濃密な世界に触れることになったので、そのうち気が向いたら同作の"Ghoomar" や"Khalibali"にもチャレンジしてみようかな。
というかこの曲の日本語訳をもっとこなれたものにするのが先か(笑)


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# by bulbulesahar | 2018-03-04 14:15 |

あべのハルカス展望台公式キャラクター「あべのべあ」を讃える漢詩 (バックアップ)   


題阿倍野熊       平仄

翔繞高楼払彩霞     〇●〇〇●●〇
蒼穹已霽総無遮     〇〇●●●〇〇
玄虚乗気固難停     〇〇〇●●〇〇
星閣対娥監浪華     〇●●〇〇●〇

            押韻 下平声六麻(平水韻)

書き下し

阿倍野熊に題す

高楼翔び繞りて彩霞を払へば
蒼穹已に霽れて総て遮る無し
玄虚気に乗じ固より停り難けれど
星閣娥に対し浪華を監る


解説訳

あべのべあ

あべのべあがハルカスの周りを飛び回って色づいた朝もやを払うと、
大空はやがて晴れ渡ってどこまでも遮るものはない。
そもそもあべのべあの本性は捉え所がなく気の流れに任せて神出鬼没だが、
夜には展望台で月光を浴びながらはるか下の海と大阪の街を見守っている。



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あべのべあファンとしては拙いながらもあべのべあを讃える詩を作ることは積年の課題だったのだが、
あべのべあ生誕祭でハルカス300に登ってあべのべあに会ってきた感激の勢いに任せて作ってみた。
最初に詩末に「浪華」の掛詞を使うことにして、これは名案だと思ったのだが、
仄起になったのは別にいいとしても(しかしこのせいで「幼熊」や「幼羆」で詩を起こすことが不可能に…泣)、
韻が微妙(使える字があまり多くない)で随分試行錯誤する羽目に陥った。
語の吟味にもかなり時間をかけ、漢文の慣用を一応逸脱しない範囲で内容を盛り込んでみたが、どうだろうか。
ちょっと前にネットを賑わせた「平成自由詩(笑)」よりはさすがに本式だとは思うのだけど。


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# by bulbulesahar | 2017-09-04 09:45 |

五味文彦『中世社会のはじまり』(岩波新書)amazonレビュー(バックアップ)   

ダイナミックな中世

古の氏族は今に連なる「家」へと分化していき、
社会の発展に呼応して世襲の家業を担うようになる時代。
同時に古代に摂取した文化や思想が日本化された形で、
身体的表現を獲得するようになり、新しい宗派や職能が生まれていく。
家同士の利権をめぐる争いは熾烈を極め、そこからあぶれた者たちは遁世の道を選ぶ。
秩序が流動的なだけに、多様な人的集団は生存にとって枢要でありつつもそのしがらみもまた強く、
この点が逆説的に個人主義的心性を強めたようにも見て取れた。
個人(西洋のものとは異なるにせよ)と社会との間の緊張感に満ちたダイナミックな関係性。
これは、きめの細かい一元的秩序に日本全体が呑み込まれた近世日本との際立った相違ではないだろうか。
あくまで印象論だが、本書を読んでそんなふうに思った。

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# by bulbulesahar | 2017-06-26 16:12 |

古谷田奈月『リリース』amazonレビュー(バックアップ)   

言葉を放ち、与えること

「悪いことは言わない。出世したいと思うなら、女は眺めるだけにしろ。なぜか?誤解を招くからだ。
 異性愛者であると公言することは、今のオ-セル社会ではほとんどセクシストを自称するようなものなんだ。
 …自分が差別主義者じゃないと社会に対して意思表示するためには、だから、これまで差別を受けてきた側に回る必要がある」

完全なる男女同権と同性婚が実現し、精子バンクが完備した社会で、
異性愛は男女差別の過去の遺物となり、男は「産ませる性」から「種を抜かれる性」に転落した。
SFにありがちな人工子宮による生殖の脱人間化は未だ完遂していない近未来。
この段階固有の男女の力関係の変動は、現有技術でも実現可能な社会なだけに真に迫ってくるものがある。

とはいえ、この理想世界を(帯にあるように)ディストピアと捉えるならば、
(特にひと昔前までは)ヘテロノーマティヴな現実のこの社会のことはそう感じないのに、
なぜ小説の世界をそうだと思うのか、という立ち位置こそが問われねばならないだろう。
じっさいこの作品には全体主義的な体制も、人の生を完全にコントロールするテクノロジーも登場しない。
あるのは自由と平等と控えめな技術、ポピュリズムとそれを支える姑息な犯罪くらい。
ほとんどの人々はそれに適応し、同性のパートナーと子供を育て、快適な生活を送っているのである。
戦慄するものがあるとするならば、それは多数派のふてぶてしいまでの順応力、そして
彼らの選好が知らず知らずのうちに偏見と抑圧を生むメカニズムではないかと思わせられる。

いかなる制度上の担保も、人々の同権への日々の心がけも、性の根源にある暴力性を消去できず、
それをもとに人類発祥以来育まれてきた様々なイメージやファンタジーを無効化することもできない。
男と女の関係の縺れと痼りに関しては、そうした理解から出発するしかないという作者の考えなのだろうか、
性のはらむ問題に対しては解答を与えるというよりは、物語の推進力として用いている印象がある。
抑圧が生み出したテロリスト、そして彼らの友情と愛と蹉跌の物語。
そして彼らを追うジャーナリスト志望の主人公がひたむきに「言葉」で「真実」をすくい上げ、世に問おうとする姿。
テロリズムにいかに対するかという現代の問題に答えることこそが裏のテーマであるようにも読めた。

「リリース」 …ニュアンスとしては、何かを産みだす(子供にせよ、作品にせよ、言葉にせよ)、
        そのときの期待と希望、あるいは執着への断念、そして解放…?

色々な主題が錯綜していてなかなか読み応えがありますが、文体は軽快、男女にまつわる語り口はとても腑に落ちます。
多くの人に読んで欲しいところです。
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# by bulbulesahar | 2017-06-26 16:08 |

『物語における時間と話法の比較詩学―日本語と中国語からのナラトロジー』amazonレビュー(バックアップ)   

日本語小説の構造を論じるなら、必読

物語における時間の語り方、そして話法の形式を日中の小説をもとに分析し、
時制や間接話法が明確ではない言語の視点から物語論を見直そうとする本書、
なにぶん大部なので日本の小説における「ル形(いわゆる現在形)」と「タ形(いわゆる過去形)」を検討した箇所しか
十分に読めてはいないが、それでも非常に面白かった。

まず物語とは「語り手」が過去の出来事を語っていくという通念にたいして、
ジュネット等の物語論のオーソドックスな流れにおいては、
物語機能と言ってもよい「非超越的作者」(作品に意図を行き渡らせ解釈を統御することはないという意味で「非超越的」である)が、
物語世界の外側から物語を語る(場合によっては物語世界内に設定された語り手を通して語る)構図が採用されていることか示される。
そして日本語の物語では特にこの図式が強く、
物語り行為を行う永遠の現在(物語現在)を現在に設定して、
そこから眼前の物語のシーンを実況するかのように語るのが基本であるという。
従って「タ形」は設定された現時点から回想する「過去」の意味で用いられることもあるにせよ、
多くの場合、何らかの新たな展開(主に時間的な)が生まれたことを示すマーカーであり、
一種のコマ送りのような機能を果たすことになる。
他方、「ル形」は主に動作や状態そのものの記述を担うのである(そこから継続などの意味も派生してくる)。

一般に「タ形」は「過去形」と捉えられており、日本語に首尾一貫した時制システムが無いことは理解していても、
じっさい小説の中で「ル形」と「タ形」が入り乱れていることはどう考えたものかと悩ましかったのだけれど、
だいぶ見通しが良くなったように思う。
翻訳を行う際などにも参考になる本ではないだろうか。
様々な言語に通じた著者だけに「英語に比べて日本語は非論理的」式の浅薄さをはるかに超越し、
堅実かつ繊細な分析を行っていて、非常に胸のすく思いがした。

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# by bulbulesahar | 2017-06-26 16:04 |

『日本の「ゲイ」とエイズ: コミュニティ・国家・アイデンティティ』amazonレビュー(バックアップ)   

現在の日本の「ゲイ」のあり方には、国家によるHIV/エイズ予防政策が大きく関わっていたという、すこぶる刺激的な論考。そもそもHIV流行の初期段階では、これをゲイの人権問題としてとらえるアクティヴィズム的な動きが決して無かったわけではない。しかし医療・行政サイドが男性同性愛者の集団を具体的にイメージしてアクセスするのは困難だったようで、結局は「海外の話」「日本の同性愛者は「おとなしい」から大丈夫」とリスクの他者化言説に絡めとられて対応の動きは鈍く、アメリカのような「エイズパニック(発症による強制カミング・アウトに続発するゲイバッシング)」を望まないゲイメディアの一部も、上記のような言説に乗っかっていた、ということであったらしい。このように、ゲイを対象としたエイズパニックが起こらないほどに「語れない対象」としての抑圧が強かった、とか性的実態が外部に洩れないほどに「閉じた世界」だった、とか今では隔世の感があってともすると忘れてしまうような過去の状況を克明に記述している点をとっても本書の価値は大きいのだが、このような状況が一変するのは1990年代半ばのいわゆる「ハッテン場」を対象にした疫学的調査によって、日本にも性的に活発な男性同性愛者が相当数存在することが白日の下に曝されてからである。部外者による一種の踏み込み調査に対して非難を表明したゲイの活動諸団体も、やがて自ら調査と予防活動を担う必要性を認識するようになり、他方「リスクグルーブ」としての「ゲイ・コミュニティ」にリーチしたい行政側もこれに応じる形で、次第に両者の間で協調関係が形成されていくようになる。かくしてエイズ予防啓発やHIV検査を主目的としたコミュニティセンターやイベントが資金援助のもとで開催されるようになり、「ゲイ」は国家に容認された、エイズ予防に意識の高い存在としてうち建てられて、「ゲイ・コミュニティ」にある程度のまとまりが生まれるようになった。(意地の悪い見方をすれば、死の恐怖を盾にすることでゲイの一部の層の発言権と統制力が増した、ともいえるのかもしれない)エイズ流行という危機的状況のもと、国家権力および医療という知の権力のある種暴力的介入に直面し、それに何とか対応し、円滑な関係を作らねばならなかったアクティビストたちの努力と動揺は察するに余りある。また啓発活動が軌道に乗ることで、少なくとも知識水準の向上という点では大きな成果があっただろうし、併せて行われたコミュニティイベントを通して、全人的なマイノリティ集団としての意識涵養がはかられ、社会における可視性もいくらかは上がったかもしれない。しかし上記のような「ゲイ」としての主体形成の歴史的経緯にはなおざりにされた面も存在することについても、本書は指摘することを忘れていない。外部がリーチしやすい、模範的ゲイライフを送るゲイに焦点が当たる一方、それ以外の疫学的リスクグループとしてのMSM(男性とセックスする生物学的男性)への対応が後手になっていること、啓発運動が合理主義的人間観に基づく知識偏重であるため、確率リスクの捉え方やそれに対する反応が個々人の置かれた社会的立場で大きく異なり、加えてセックスの実際の場面で決定的に重要になる「相手との関係性」の視点が抜け落ちていること、HIVの予防に重点が置かれるあまりに、陽性者の死の(そして生の)技法の顕現者としての固有の価値が見過ごされていること、等々。特に最後の点、(死の病ではなくなった現在では状況が違うところもあるようにも思うが)、HIVをかくも恐れるという心性が、人生のはるかかなた地平線の向こうにしか死が存在しないという現代の摩滅した死生観に深く関わっているという意見として、興味深く読んだ。権力のまなざしなくして集団はなく、権利を主張できる主体も発生しない。こういう際どい交渉の関係性は、なにもゲイに限らない普遍的なことだから、そこまで気にしなくても、という感じが無いわけではない。それでも今目指す形として見えている「自由の形」の根を忘れないことは、ともすると気づかなかったことにしがちな生きづらさや生きる違和感を見逃さずに、自己のあり方や周りとの関係の取り方を日々調整していくためにはやはり大切なことなのだ、そんなふうに思うことができた。
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# by bulbulesahar | 2017-06-26 16:01 |

『風の谷のナウシカ』の例の古の伝承をホメーロス風に   

その者蒼き衣を纏いて 金色の野に降り立つべし
失われた大地との絆を結び 人々を青き清浄の地に導かん




ナウシカが身を挺して王蟲の暴走を止めた後の夢幻的なシーンで
大ババ様によって語られる風の谷の古い言い伝え、
その原文を記した断片が腐海の底からついに発見された!!



...

κυανέην δ'ὅς τοι χλαῖναν περιειμένος ἤδη,

χρυσαυγὲς μὲν δὴ πεδίον κατελέυσεται ἐσθλός.

σπεισάμενος δ'αὖ γῇ ἐπὶ δέσμαθ'ἅπερ ποτ'ὄλωλε,

θνητοὺς δή ῥ'ἀγάγοι γλαυκήν θ'ἁγνήν τ'ἐπὶ γαῖαν.

...






というのはもちろん冗談で、ご覧のように
元来ナウシカはオデュッセイアに出てくる王女の名前であった、という縁にちなんで、
伝承の言葉をホメーロスの英雄叙事詩の言語と韻律(dactylic hexameter)で
訳詩してみたのでした。

韻律の確認も兼ねて、発音の大まかなカナ転写を以下に示します。
(半角は母音無しを表す。特に短めに読んだほうがいいイ・ウも半角)
(・は詩脚の区切り、||は息継ぎ&休憩ポイント(caesura))


キューアネ・エーンドス・トイクライ・ナン||ペリ・エイメノ・セーデー

クリューサウ・ゲスメン・デーペディ・オン||カテ・レウセタイ・エストロス

スペイサメ・ノスダウ・ゲーイ||エピ・デズマタ・ペルポト・ローレ

トネートゥース・デーラガ・ゴイ||グラウ・ケーンタグ・ネーンテピ・ガイアン


なおギリシア語の直訳(散文訳ですが…)は以下のようになります。



その者たるや既に蒼き上衣を纏い、

貴き者とて金色に輝ける野にぞ降り来るべき。

かつて滅びし絆のため大地と再び和を約して、

死に定められたる者達をついに青き清浄の地に導かん。




たった四行ですが、韻律に上手くはまるよう言葉を選び順序を調整するのは
非常に時間がかかりました。
この制約に対抗するために詩語による代替形や代替的変化を使うことができ、
埋め草的定型表現も無数に存在するのですが、言うは易し行うは難し。
即興でじゃんじゃん歌えたという昔の吟遊詩人に尊敬しきりです。
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# by bulbulesahar | 2017-01-20 00:34 |

2015年上半期NHK連続テレビ小説「まれ」レビュー(amazonレビューのバックアップ)   

この記事を書いている時点では最後の現代もの朝ドラとなっている「まれ」。
放送が始まるやSNSを中心に賛否両論が入り乱れたことからも
やはり触発的な作品だったのだと今は思うのだけれど、
個人的にはこれほど熱中した朝ドラはかつて存在しなかった。
印象としては「ドラマの作り事の世界でなくちゃんと現代のややこしさを掬い取っててスゴい」
まあ脚本家さんが昼ドラ出身の方なので、ザラついた、毒のある現実描写のしかたとか、
ドラマを視聴する際のスタンスの取り方(感情移入の程度とか、身の乗り出し方みたいな感じ?)
といった意味で、自分と相性が良かったのだと思うが(笑)

このドラマについては本当に色んなことを考えてきたし、
レビューを書こうと何度も試みたのだけど、
作品の持つポテンシャルがあまりに多方面かつ強力なせいか、
どうしてもうまくまとめることができなかった。
もう終了して1年以上前になるドラマなのでもういい加減遅きに失しすぎているのだけれど、
今になって何とか文章にすることで、ようやく長い間の心の宿題を果たすことができた。


===============以下レビュー本文===============

朝ドラがバブル崩壊以後のリアリティに追い付いた画期的作品

現代ものの朝ドラは難しい。
女性のライフコースと自己実現を描く長編として、
社会や家族の中における「女の分」という因習との対峙を
ドラマ推進の原動力にすることが困難だからだ。
「まれ」は、この難しさと正面から向き合い、現代にいかなる朝ドラが可能なのか、
ひとつの答えを提出したように思う。

本ドラマは、従来型の朝ドラの視点からすれば、
まことに不安定で、混沌とした様相を呈している。
性・家族・年齢による役割分担の規範が少なくとも理念の上では骨抜きとなった
現代日本を舞台にしたこのドラマでは、
夢の実現をあからさまに阻むものは存在しないし、
家族の反対も(旧来の役割意識をぎこちなく模倣してみたケースはあるにせよ)
実効力を持たない。
したがって全ては本人の判断と努力次第であり、結果は自己責任ということになる。
おそらくこのような意識が浸透していることに、
主人公希(まれ)の行動への批判が過熱した構造的要因を求められるのだろうが、
当然ながら現代人とて現実にはそこまで自由かつ有責たりえない。
むしろ外的自由の中においてこそ
人間の抱える「内的不自由」がはっきりと立ち現れてくるのであり、
この逆説は作中でもこれでもかというほどに執拗に描かれている。
例えば都会と田舎、そしてポストバブル世代の文化資本の格差は、
目標への正しい努力の方向性すら見定めることを許さないし、
親世代が抱えた精神的欠落はたとえ愛情自体は足りていても子供に影を落として
ここ一番という時に心の深層から噴出し、
ただでさえ難しい女性のキャリア形成のスケジューリングを攪乱する。
そもそも世間での役割が解体した後に個人の実存を未来から支え統御する
夢と自己実現の物語からして、
目指す先のイメージが著しく多元化するにつれて、
その着実な達成を保障し確認させてくれるステップのようなものは消え去ってしまっている。
(一例として、本作では「地道にコツコツ」「本場フランスのパティシエになる」
 という希のナイーヴな固定観念が、
 その執拗なリフレインによってかえって機能不全を露呈させている)
つまり「夢」は、確かに人生に意味と動機を与える点で
現代に生きる私たちから切り離せない不可欠なものではあるが、
同時に単に自己決断と自己責任と個性の発揮を日々強迫する自由の牢獄であり、
あらゆる迷妄の根源にして、
錯綜した欲動を触発することで主人公たちの意志を拘束し所構わず引き摺り回す
という相貌も持っているのだ。
本ドラマではこうした「夢」の特性、つまり
人格形成の基礎となる人間関係としての上述の家族愛についてもそうであったように、
意志の自由の根源として自己と最も密接に関わって
様々な恵みをもたらしてくれるものが不自由の原因でもあり、
対峙・対処すべき存在として最も厄介である、
という二重性が大きくクローズアップされている。
さらに言えば、「まれ」は、朝ドラの二大テーマである
「夢」と「家族」に現代日本社会の現実を取り込むことで、
ドラマ展開の文法を「外的障害の克服」から「内なる闘い」へと大転換させたことになる。
しかし一方で、
その斬新さに加えて戦うべき対象が明確な形でその姿を現し得ないがゆえに、
人格と行動原理がキャラ立ちの観点からはともすると不安定かつ不可解に見え、
視聴者の困惑と反感を惹起する結果をも招いたのだった。

現代において役割規範の拘束力が減じたことによって
本ドラマの構造にもたらされた重大な影響はこれだけにとどまらない。
作中ほぼ全てのキャラクターが、
自己実現に果てしなく彷徨う「夢追い人」として平等な立場となるのである。
つまり親・先輩・師匠といった年長世代も、
もっぱら主人公世代を支え導く(あるいは立ちはだかる)役割に回るほどには
枯れてもいないし安定もしていない、ということを意味し、
この点でも主人公に移入する視聴者心理が不安と恐慌に陥れられたといえそうである。
現代の老成なき世界においては本質的にアドバイスやロールモデルは機能せず、
結局のところ様々な夢を抱き、夢に対して様々なスタンスを持つ
様々な年齢層のプレイヤーが弁証法的にぶつかり合い、
互いの苦悩し模索する姿から学び合うことを通して
各々が自分で暫定的な答えを出し続けていくより他に前に進む道はない。
青春群像劇どころではない規模で
登場人物の夢の探求の物語が同時進行で展開する本ドラマのダイナミックな構造は、
このような時代状況を真摯に反映させたことに一因があると考えられるが、
やはり相当に野心的である。
各キャラクターのストーリーが奏でるポリフォニーを聴き分けるためには
朝の忙しい時間帯はそもそもあまり適当ではなかったかもしれないし、
加えてこの困難に拍車をかけたと思われるのが、
おそらく膨大な情報量を毎回15分の尺に収める必要もあって採用された、
ほのめかしや省略、アンチクライマックスの多用による
余情重視のストイックな構成法であった。
しかしかくして実現された、朝ドラとしては特異なまでに高密度で、
個人の分子運動が織り成すカオティックな力動のリアリティすら帯びた
ドラマ集合体の充溢に浸されるということは、全くもって稀有で貴重な視聴体験で、
脚本家の篠崎絵里子さんと制作スタッフの皆さんには心から感謝の意を表したい。

「まれ」は成長の時代が遠い過去のものとなった
現代のいろいろな問題を見据えているだけに、決して生易しいドラマではない。
家族や周囲に支えられ助けられながらひとつひとつ障害を乗り越え、
わかりやすい形をとった夢を着実に実現していく
ヒロイン的主人公にカタルシスを感じたい視聴者にはどうしても不満が残るであろう。
しかし今まさに自分の夢を追う状況に置かれている人にとっては、
価値観も選択肢も流動化した世界の複雑さを
デフォルメを施しつつも開示してくれるという意味で腑に落ちるところがあり、
勇気付けられることさえあるのではないか。
そして私たちの大多数と同様に、境遇においてさほど恵まれておらず、
混沌極まりない世界を透徹することもかなわない主人公たちが、
試行錯誤と暗中模索の中で関わり合い、
紆余曲折ありながらも次第に幸せをつかんでいく姿を描いた本作は、
本当の意味で愛のある「優しい」ドラマなのだとも感じている。
従来の朝ドラのテーマやクリシェを受け継ぎつつも、
ポストバブル期の世と人のありようを冷徹に見据えた上で目一杯盛り込んだがために
実質においてかなり尖鋭的な部分が多くなり、
それゆえ賛否両論に沸くことになったのは事実であるが、
今に生きる若者の困難と希望を提示した現代もの朝ドラの記念碑的作品として、
もっと見直されてよいドラマだと思う。
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# by bulbulesahar | 2017-01-04 18:51 |

『古典ギリシア語文典』レビュー(amazonレビューのバックアップ)   

ὦ ἔμπειρ' ὁδηγέ, πάνυ πολλοὺς δὴ προάγων ἂν τὰς ῥημάτων κλίσεις τι μαθόντας εἰς τὸ Ἀττικὸν στεφανούμενε συμπόσιον.

古典ギリシア語において最も「標準的」なアッティカ方言に照準を定め、
その読解および運用に必要十分な知識を何とか通読できる一冊に収めたのが本書である。

古典ギリシア語の学習においては、入門書で名詞や動詞の活用をとりあえず記憶した後、
いきなり古代の作品を註釈と文法書を(場合によっては翻訳も)頼りに読み進めていく、
という方法を採ることが多いように思う。
このような「精読」はテクストの精確な理解のためにはどの段階でも欠かすことはできない一方で、
フィロロジーにそこまで傾倒しない一般の愛好家としては、
8、9割の理解でも低ストレスかつある程度の速さで読めるようになりたいとの要望もあろうし、
よほどマニアックな知識を除いた、古代の平均的アテネ市民が有していたであろう文法意識を
体系的知識として自家薬籠中のものとすることは、
いかに現代社会において古典ギリシア語でアウトプットする機会が少ないとはいえ、
古代ギリシア文学をより自然に感受するという点において少なくない益があると思われる。

もちろん本書は中級文法レファレンスとしての活用も可能であろうが、それ以上に
学習につれて特殊な変化や例外事項が際限なく増えていく
泥沼の如き感のある古典ギリシア語において
「これだけ覚えておけばとりあえず大丈夫(逆にこれ以上の内容はトリヴィアに近くなる)」
という福音の書であり(それでもその量は殆どの人にとって膨大ではあるが…)、
また、その記憶の作業をできるだけ容易にするという方針のもとに書かれているようである。
その意味において、そもそも通読を意図されていない欧州近代語の巨大な文法書とは
うまい具合に棲み分けがされているし、
高津春繁『ギリシア語文法』の
印欧語学の学殖に基づき方言形も余さず網羅した精緻な書法よりは、
本書のほうが親しみやすく役に立つ、という読者も少なくないであろう。
(じっさい本書を読んだ後に高津文法を再び繙いたところ、格段に読みやすくなっていて驚いた)

形態論では「不規則に見える形の背後にどのような原理が潜んでいるのか」
という点に焦点を当て、
記憶量を極力軽減するために言語学的知識が比較的理解容易な形で導入されており、
また混乱・混同が起きやすい変化形などにも注意喚起がなされていることが多く、親切である。
文章論(シンタックス)は、従来入門書では本格的に扱われてこなかっただけに、
まさに待望の章である。
様々な構文がどのようなニュアンスに基づいて(あるいは単なる文法的要請の結果として)
使い分けられているのかがかなり明確に分かるようになっている。
また、文例にかなり多くの古典引用が用いられており、
これをしっかり理解するだけでも(本書にはない)講読編の代替をある程度は果たしうると思う。

以上本書の美点を挙げてきたが、いくつか惜しまれる欠点もある。
その最大のものは、否定詞と小詞(particles)の項目が無いことである。
特に後者については日本語読者に向けた著作であればこその、
口語日本語の多様な終助詞・語気詞も視野に入れた
腑に落ちるニュアンスの説明が望まれるところであった。
また、刊行スケジュールが差し迫っていた(はしがき)せいもあると推測するが、
日本語の文法項目索引があまり充実しておらず、参照のためには多少不便かもしれない。

加えて内容とは関わらないが、レイアウトの問題がある。
本書は姉妹書?の『古典ラテン語文典』よりも100ページほどページ数が少ないが、
内容量は決して引けをとっていない。
つまり、小さい字で目一杯詰め込んでいるということである。
ページ数が増えると(すでに高い)価格が上がるということなのかもしれないが
これはどうなのか。
改行や改ページも少なくなっているために、
セクション構造の視認性に支障を来しているのみならず、
本文から受ける印象が私家版めいたいささか安っぽいものとなってしまっている。
この点、白水社には反省してもらって改善を促したい。
上述の『古典ラテン語文典』ではシンプルかつ格調あるレイアウトが実現できているのだから。
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# by bulbulesahar | 2016-12-29 18:32 |